茹でガエルという話を知っていますでしょうか。
熱湯が注がれた鍋に入れられたカエルは、熱くてすぐに鍋から飛び出てしまいます。しかし、常温の水を入れた鍋の中に入れられたカエルは、その鍋をゆっくりと火にかけられると、水から熱湯に変わったことに気づかずに飛び出すこともなくそのまま茹で上がってしまうという話です。
受験勉強というものは、この鍋の中の水に入ることに似ていると思っています。他のカエルが外の世界で意気揚々と跳び回っているのを尻目に、何の因果か自ら鍋に入って、火にかけられて、ひたすらその中でじっと我慢をしている。運良く合格すれば火は止められ、鍋から脱出できます。そのときを夢見て唇を噛み締め熱さに我慢しています。
しかし、火は止められずとも、実はいつでも自分の判断で脱出することはできるのです。
限られた人生です。そして、選択肢は無数にあります。頭が火照り、茹で上がってしまう前に鍋から脱出するのも勇気ある決断であると思うのです。
今一度、なぜその資格を取るのか、そこに必然性はあるのかということを考えてみます。
何かを成し遂げるためにその資格が必要であるという積極的な動機ではなく、ここで止めたら、今までに費やした時間と費用と労力が勿体ないという考えならば、損失だと分かっていながら投資を続ける、いわゆるコンコルドの誤謬に陥っているのかもしれません。
「埋没費用効果 (sunk cost effect)」の別名であり、ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をしつづけることが損失につながるとわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資がやめられない状態を指す。超音速旅客機コンコルドの商業的失敗を由来とする。ーWikipedeiaより引用
株式投資において損切りが出来るかどうかが、初心者からの脱却となるか否かという話に通ずるところがあります。
「次もがんばる」と同様、「ここでやめる」、どちらの選択も尊重すべきものなのだと私は思います。
がんばれ!と言ってくれる人はいようとも、もうがんばるな!と言ってくれる人は稀です。自分で潮時を見極める必要があります。むしろ、後押しがない分、そちらの方が勇気が必要です。日本男子には諦めたらそこで終了という言葉が呪縛のようにのしかかっておりますが、諦めればそこからまた始められる、そういう解釈が必要であるようにも思えます。
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